情報学部 菅沼ホーム

ひとりごと

    葉隠と般若心経
    プログラミングとその誤り
    大学とは
    技術者教育について( JABEE )
    自転車と環境について
    科学技術と地球環境について
    少子化について
    防衛省とは何か?
    ディジタル庁について

葉隠と般若心経

  二十歳前後の頃から,私にとって座右の銘と言えば,

武士道といふは,死ぬ事と見附けたり

という言葉です.これは,「葉隠」聞書第一の最初に現れる言葉です.「葉隠」は,私にとって座右の書であり,寶永 7 年( 1710 年)から 7 年間かけ,隠棲していた佐賀藩士山本神右衛門常朝の口述を田代又左右衛門陣基記録したものです.この言葉故に,死を礼賛した書物のように見られがちですが,この言葉に続く,

武士道といふは,死ぬ事と見附けたり.二つ二つの場にて,早く死ぬ方に片附くばかりなり.別に仔細なし.胸すわって進なり.図に当らぬは,犬死などといふ事は,上方風の打ち上りたる武道なるべし.二つ二つの場にて,図に当るやうにわかることは,及ばざることなり.我人,生くる方がすきなり.多分すきの方に理が附くべし.若し図にはづれて生きたらば,腰抜なり.この境危きなり.図にはづれて死にたらば,犬死気違なり.恥にはならず.これが武道に丈夫なり.毎朝毎夕,改めては死に改めては死に,常住死身になりて居る時は,武道に自由を得,一生越度なく,家職を仕果すべきなり.

という文章を見て貰えば,死を礼賛した書物でないことは明らかだと思います.「葉隠」の他の箇所に,

只今がそのとき,その時が只今なり
大事の思案は軽くすべし

という言葉も記述されています.また,新渡戸稲造は「武士道」という書物において,

義は勇の相手にて裁断の心なり.道理に任せて決心して猶予せざる心を云ふなり.死すべき場合に死し,討つべき場合に討つことなり.

という林子平の言葉を引用しています.この心も「葉隠」に通じています.”今は今しか無い.正しいと思ったことを,結果を恐れず,躊躇せずに実行せよ”,これが,正に,山本常朝や林子平が言いたかったことではないでしょうか.

  しかし,「何が正しいのか」,「何が道理に合っているのか」という判断を誤れば,上で述べた生き方はとんでもない方向に進みかねません.私にとって,その一つの基準となるのが「般若心経」です.”今を全力で生きる”という考え方は仏教の基本的な考え方でもあります.今は過去がある故に存在し,そして,未来を決めていきます.諸行無常の中で,今は二度と存在しません.それゆえ,今を全力で生きることが重要になります.さらに,今,過去,未来におけるすべてのものは,独立に存在すること無く,お互いの関係の中で存在しています.自分自身も,周りの全てのおかげで存在し,また,周りの全てを存在させています.このような「般若心経」における””という考え方は,私に大きな影響を与えました.そのような点から,「般若心経」も私の座右の書の一つです.

  「葉隠」や「武士道」は学生時代に,また,「般若心経」は 30 歳前後に読んだ書物です.そして,これらが,自分の生き方を決めてきたように思います.しかし,今まで,これらの書物に述べられているような生き方をしてこられたかという点を考えると,残念ながら,とても合格点を出せるレベルではありません.幸いにも,討つべき(殺すべき)だと判断するような状況はありませんでしたが,死ぬべき(生きられなくなる)状況に陥る可能性がある場面はありました.しかし,それらの場面において,「困難に向かうことを躊躇し,逃げてきた」というのが現実です.残り時間も少なくなってきました.最後に,一度でもいいから,”逃げることがない行動をとりたい”,これが今の気持ちです.

プログラミングとその誤り

  プログラミング言語をアップロードしました.以前より,同じ表現方法でありながら,処理内容が異なるようなプログラミング言語の仕様に疑問を感じていました.これは,プログラムの誤りの原因になりやすいと共に,誤りの原因を見つけにくくします.現在,非常に多くの分野において,コンピュータが重要な役割を果たしています.プログラムの誤りは,場合によっては,人命に関わります.そのような点から,プログラムを書く上で,最も重要なのはわかりやすいプログラムを書くことです.その目的は,誤りを少なくすることです.いくらわかりやすいプログラムを目指しても,言語仕様に問題があるようでは,目的を果たせません.以前より,これらの点について何かコンテンツを作ろうと思っていましたが,なかなか,始められませんでした.昨年の 11 月末から初めて,半年近くかかって,ようやく書き上がりました.

大学とは

  大学とはどのようなものでしょうか.大学の教育はどのようなものであるべきでしょうか.100 人集まれば,100 の教育論が現れると思います.いったい,どれが正しいのでしょうか.恐らく,どれも正しいし,どれも間違っているのではないでしょうか.すべての状況で,すべての人間にとって最適な教育方法などはあり得ないと思っています.ここでは,教育について私が思っていることを述べさせて頂きます.

  四書五経(「礼記」中の大学・中庸の二編と論語・孟子,易・書・詩・礼・春秋の五経)の内,「大学」の最初に以下のような文章があります.

  「大学之道,在明明徳,在親民,在止於至善」

これこそ大学が目指すべき道ではないかと思います.勿論,この言葉は,生き方(学び方)について述べたものですが,大学という組織にも十分当てはまる言葉だと思います.おそらく,「大学校」ではなく,「大学」と命名した意図もそこにあったのではないでしょうか.知識と共に最高の徳を身につけ,それを社会に還元し,最高の徳を維持するため一生切磋琢磨できる人間を目指すことが大学人(教職員,学生)の道ではないでしょうか.このままではあまりにも抽象的ですので,以下,現実的な場に移して話を進めていきます.

  以上述べたことに従えば,大学(という組織)は,研究のための組織でもなく,教育のための組織でもなく,教職員のための組織でもなく,また,学生のための組織でもありません.自分を伸ばそうとしたい(『明徳』を明らかにしたい),少なくとも自分を伸ばさなければならないと思っている人に対して,その場を提供するための組織であると言えます.そのため,その中では,教職員も学生も全く同じ立場です.ただ,学生に比較して,教職員はより多くの知識や経験を持っています.したがって,教職員が学生に教えるという状況が多くなることはやむを得ません.しかし,教職員も学生も同じ目的を持った同志であることを忘れてはいけません.

  このような場を構成するためには,『明徳』を明らかにするといったことには全く興味のない人間,例えば,「ゴミを所構わず捨てる」,「電車の中で複数の座席を一人で占拠して平気でいる」,「電車の中で平気で携帯を使用する」とか,人間としての基本的ルールさえ守れないような人間は当然排除すべきだと思います.たしかに,現代の学校では知識を学ぶことに重点が置かれていますが,知識を学ぶ最も重要な目的は自分自身を高めることです.人間としての基本的なルールも守れないような人間に対して知識を与えることは,危険を感じざるを得ません.社会全般としての問題でもありますが,基本的なルールも守れないような人間に対する厳格な処置が必要だと思います.

  それでは,『明徳』とは一体どのようなものでしょうか.先に述べた「大学」の文書内の『明徳』とは,人間としての最高の徳といったような意味でしょうが,ここでは,それに加え,知識やそれを使用できる最高の力(以後,簡単のために学力という)も『明徳』の一部として付け加えたいと思います.しかし,『明徳』とは絶対的なものでしょうか.そうではないと思います.いや,そうであってはならないと思います.育った環境によっても大きな差が出ますが,本来,人間の能力には大きな差があります.能力があるもの,能力がないもの,それぞれの『明徳』があるはずです.大学では,それぞれの能力に応じて,その能力を最大限に発揮できるような学習を行えばよいと思います.「小学校や中学校の数学も理解できない大学生がいる」といった話をよく聞きます.恐らく,そのような人が,大学における学習だけで,高等学校までの内容を十分理解してから大学における学習をした人の学力まで到達することは不可能かと思います( 100 %不可能であるとはいいませんが).しかし,私は,そのような人が大学に入っても構わないと思います.「大学において学んだ結果,分数の概念を十分理解できた」といったことでも構わないと思います.ようは,志の問題です.自分を伸ばそうとする(『明徳』を明らかにしようとする)意志がある人であれば,その人にあった場を提供するのが大学の義務であると思います.

  勿論,ある能力以上の人だけに大学への入学を許可するといった考え方もあります.しかし,私自身はその考え方に賛成できません.社会がその体制を維持できる限り,自分自身を伸ばしたいと思っている人すべてに大学で学ぶことを許可すべきだと思います.実際,文部科学省も,「社会の期待に応える教育改革の推進」(平成 24 年 6 月 4 日)の中で,”今後目指すべき我が国の姿”として,

すべての国民が自らの能力を伸ばす機会を保障され,社会参加を通じて自己実現できる公正で活力ある社会

をあげています.しかしながら,同じ文章内の”教育改革の7つのポイント”,”社会構造の変化に対応するための初等中等教育システムの改革”,同じ時期に出された「大学改革実行プラン」,さらには,平成 20 年 12 月 24 日に,中央教育審議会から出された答申「学士課程教育の構築に向けて」の第2章第3節「2 初年次における教育上の配慮,高大連携」の文章,

  自ら受け入れた学生に対しては,十分な教育の責任を負うという認識に立って取り組む.ただし,高等学校以下のレベルの教育を計画する場合,教育課程外の活動として位置付け,単位認定は行わない取り扱いとする

などを見る限り,とても先に述べたような姿を目指しているとは思えません.むしろ,”上位 1 ~ 2 割の人間だけが大学に進学する権利がある”ということを主張しているように思えます.

  小学校レベルの数学さえ理解できていない人に対して,数科目の補習だけで,高等学校卒業レベルまで持っていくことはほとんど不可能です.それとも,初等中等教育システムの改革によって,大学進学希望者のほとんどの人が高等学校までの教育内容を十分理解して卒業できるようになると考えているのでしょうか.人間には,能力差があります(例えば,IQ はかなり幅広い正規分布となっています).どのようにシステムを改革しても,教育内容のレベルを極端に下げない限り,大学進学希望者のほとんどの人が高等学校までの教育内容を十分理解して卒業できるようにすることは不可能です(勿論,多少の効果はあるでしょうが).分数計算も十分理解できない学生が,数Ⅲまでを履修・合格した,といった経歴で大学へ入学してくるのが現状です.文部科学省から出る答申等では,そのような学生に対する対応について全く触れられていません.文部科学省の方針をまともに適用すれば,多くの学生が大学から閉め出されます.しかし,多くの大学では,そのようなことをせず,小学校から高等学校における指導要領のように,建前と実際を使い分け,指導要領に記載されたものを十分理解していないにもかかわらず,理解したように取り繕って卒業させるといった方法をとるはずです.教育界は,”うそ”と”きれいごと”にまみれた社会のように思えてなりません.文部科学省でまず第一にやるべきことは,この”うそ”と”きれいごと”を排除することではないでしょうか.

  また,産業界との関係についても触れておきます.最近,文部科学省からの要請で,多くの大学でキャリア支援,社会人基礎力,倫理などに関する教育がカリキュラム内に取り入れられています.一部,講義として実施すべき内容もありますが,その多くは学生自身が社会生活の中で学んでいくべきものです.学校で教えることができるものは,生きていく上で必要な知識のほんの一部に過ぎません.例えば,フリータのような問題に対して学校でどのように講義しても,パートや派遣社員など,社会がそれを必要としている中では何の意味もありません.人命の尊さをいくら強調しても,交通事故で誤って人を殺してもたいした罪にならないことを知れば,人命が何にも増して尊いものであると考える人はいないはずです.逆に,学校教育が功を奏し,フリータや派遣社員などになる人がいなくなれば,産業界はパニックになってしまいます.これこそ,産業とのミスマッチです.学生の就業意識や産業とのミスマッチ等の問題を解決するために真っ先に行うべきことは,産業界を含めた社会システムの再構築です.学校における短時間の教育よりも,社会システムを通した教育の方が格段に効果があるはずです.

  勿論,大学側に責任が全くないわけではありません.「約束を守る」,「やるべきことをやる」,「遅刻をしない」,「私語をしない」など,これらは基本的な倫理観であり,かつ,社会人基礎力のベースをなすものです.約束を守らないとどのような結果になるかを体験するなど,これらも社会生活の中で身につけていくべきものです.当然,学生は,大学生活の中で身につけていく必要があります.しかし,実際は,「提出する書類が多少遅れても何とかなってしまう」,「場合によっては,わざわざ電話等で知らせてくれる」,「勉強しなくて不合格になっても,再試験によって合格させてくれる」,など,社会における常識とはかけ離れた対処が大学ではなされている場合があります.これでは,まともな社会人が育つはずはありません.

技術者教育について( JABEE )

  文部科学省の大学設置等に対する規制緩和,国立大学の独立法人化,自己評価,第三者評価等,大学を取り巻く環境が大きく変化しようとしています.大学に永年勤める人間がこんなことを言うのも多少変ですが,今までの大学は,その卒業生に対して品質保証的なことを何ら行ってこなかったと言っても過言ではありません.

  工場から出荷される製品であれば,その製品の性能,品質等について,それなりの保証がされて送り出されています.大学が送り出すのは,品物ではなく人間であり,全く同じ議論はできませんが,何らかの品質保証的なものはあるべきだと思います.品質保証的なものとして唯一存在したとすれば,「卒業した大学名」だけでした.しかし,大学名だけでは,卒業生の持っている知識,能力等を的確に判断することは不可能です.

  このような問題に対する対処法の一つとして行われているのが JABEE認定基準と審査方法)だと思います.JABEE のホームページには,「JABEEが実施する審査は教育プログラムの評価であり,評価対象は4年間の教育プログラムが達成する教育成果(Educational Outcomes)である.JABEEは大学の提示する教育目標がJABEEの要求する教育成果を含み,国際的なMinimum Requirements を満たす内容であることをチェックする.また,自己点検書や訪問調査から,教育成果が教育プログラムの提示する教育目標を必要な水準で満足していることを確認する.機関認定と異なり教育活動に持ち込まれる資源(カリキュラム,教員,設備)や用いる教育手法は大学の独自性に任されており,革新的な教育手法やカリキュラムが生れる環境を準備している.」と記載されています.つまり,JABEE が認定する学科等の卒業生に対して,社会の要求水準を満たしている技術者であることを保証しようとするものです.確かに,認定基準に記載されている

  1. 地球的視点から多面的に物事を考える能力とその素養
  2. 技術が社会や自然に及ぼす影響や効果,および技術者が社会に対して負っている責 任に関する理解(技術者倫理)
  3. 数学,自然科学および情報技術に関する知識とそれらを応用できる能力
  4. 該当する分野の専門技術に関する知識とそれらを問題解決に応用できる能力
  5. 種々の科学,技術および情報を利用して社会の要求を解決するためのデザイン能力
  6. 日本語による論理的な記述力,口頭発表力,討議等のコミュニケーション能力およ び国際的に通用するコミュニケーション基礎能力
  7. 自主的,継続的に学習できる能力
  8. 与えられた制約の下で計画的に仕事を進め,まとめる能力

等の学習・教育目標を達成した卒業生であれば,すばらしい技術者であると思います.

  しかし,ここに大きな問題が存在します.JABEE で認定されるためには,その卒業生全員が,学習・教育目標等を達成している必要があります.JABEE は,学習・教育目標等を全員が達成しているか否かをその成果に焦点を当て判定することになります.しかし,上に挙げた学習・教育目標の内容を見ても明らかなように,全員が達成していることを教育方法やその成果から判定を行うことが困難(ほとんど不可能)な項目が多々存在します.技術者は人間です.その人間の倫理観,意欲などの精神的な面に関わる事項を,「何時間かの講義を行い,その成績が優であった」などということで保証できるのでしょうか.それにもかかわらず認定を行ったということは,そこに何らかの作為が感じられます.結果的に世間を欺くことになり,崇高な目的を掲げているにもかかわらず,JABEE だけでなく,大学という組織自体に対する信用をも失いかねません.現状のままでは,詐欺行為であるといっても過言ではありません.教育者としての良心を持つならば,早急に何らかの手を打つべきです.

  細かなことですが,認定基準と JABEE の目的との食い違いも気になります.「資源(カリキュラム,教員,設備)や用いる教育手法は大学の独自性に任されており」と言っておきながら,認定基準には教育方法に関する事項が数多く含まれています.たとえば,教育成果を評価する上で,学習の量に何の意味があるのでしょうか.ある内容を 1 時間で理解できる人もいれば,10 時間,100 時間かかっても理解できない人もいます.

  ある人は,「このようなことを行わなければ,世界の趨勢に乗り遅れ,世界市場で日本の技術者が閉め出されてしまう」ようなことを言います.もしそうであれば,そこで使用されている認定基準自体が誤っているとしか言いようがありません.「西施の顰に倣う」ようなことを行うべきではありません.自分の頭で物事の善し悪しを判断し,それを採用するか否かを自分で決めるべきです.もし誤っているならば,我々が行うべきことは,その誤りを指摘し,正しい方向へ導いていくことです.

  最初に述べましたように,品質保証的なものは必要だと思います.では,どのような形で行うべきでしょうか.原則的に,品質保証の範囲を,品質保証がある程度可能な「知識」(一部,技能的なものも含めるべきだと思います)の範囲に留めるべきだと思います.もちろん,単に「知識」を持っているだけでは技術者として不十分です.JABEE の学習・教育目標等に掲げられているような多くの能力を必要とします.逆に,教科書的な知識という面では見劣りするが,他の能力の面から優れた技術者になりうる学生も存在するはずです.各大学は,そのような能力を持たせるために様々な教育上の工夫を行っているはずです.したがって,知識以外の能力に関しては,各大学独自の教育方法・内容を外部にアピールすることによって,品質保証(部分的な保証にしかなりませんが)に代える以外に方法はないのではないでしょうか.

  知識や一部の技能に対してその保証をするとすれば,その対象は,学科の卒業生よりも科目(評価可能な科目)の履修者にすべきだと思います.また,その水準も,「社会が要求する水準」などという曖昧なものではなく,絶対的な水準を設定すべきだと思います(社会の要求等,外部的な諸環境が変化すれば,水準そのものを変化させればよいだけです).もちろん,水準の設定及びその科目の履修者が設定された水準をクリアしているか否かの判定は,何らかの組織によって行う必要があると思います.

  しかし,科目毎にある固定された水準を設定すると,大学によっては,その水準が低すぎる(高すぎる),また,学科によっては,本学科にとってそこまでの知識は必要ない(より高度な知識が必要である)といったような問題が生じる可能性があります.この問題は,科目毎に複数の水準を設定することによって避けることが可能ではないでしょうか.水準が同じであれば,いずれの大学の科目であってもその教育内容・成果はほぼ同じであり,かつ,水準設定された科目に関しては,相互に単位互換を認めるようにしておけば,自分の所属する大学の講義に飽き足らない学生がより水準の高い同じ科目の講義を履修したり,逆に,どうしても理解できない講義をより水準の低い講義で理解しようと試みるようなことも可能になります(他大学の科目を履修することは,今後,遠隔講義や e-Learning によってますます容易になっていくと思います).

自転車と環境について

  自転車ツーリングを行っていて,いつも感じるのは,自転車がますます走りにくくなっているという点です.特に,主要国道は,勾配が小さく自転車にとっては好ましいのですが,交通量の多さのためとても気持ち良く走れる状態ではありません.歩道を走ればよいという意見が出てきそうですが,歩道に関しても,以下のような点から自転車に対する配慮がほとんどなく,とても走る気になれません.

  1. 常に歩道があるとは限らない(突然なくなる,片側にしかない,・・・).

  2. 舗装がいいかげんであり,作られた当初はよいが,しばらくたつと路面状態が非常に悪い場合が多い.また,他の道との交差点において,段差がある.したがって,スピードを出したいときや疲れたときは走る気がしない.特に,ロードレーサーでは走れないといってよい.

  3. 危険である.

    • 脇道が交叉する場所において,歩道前の停止位置で止まらず,車道の位置までかなりのスピードで出てくる車が多い.実際,自分自身も,車にぶつかったり,ぶつけられたりした経験が何回かあるが,そのすべてが歩道か,または,交差点の横断歩道内である.

    • 特に広い歩道の場合は,車を駐車している場合が多くある.

    • 交通標識等の障害物が歩道にもうけられている場合が多い.特に,夜間の場合,自転車の照明では見にくく,支柱等に衝突する可能性がある(自分自身にも経験がある).

  現在は自動車社会です.自動車を中心に社会が動いていると言っても過言ではありません.しかし,そのために,年間数千人もの人間が死亡し,その何十倍かの人間が負傷をしています.かなりの規模の戦争でなければこれほどの被害は出ないはずです.自動車で人を殺してしまっても,単なる過失致死であり,「ごめんなさい!」の一言で済まされると言っても言い過ぎではありません.そして,自動車免許という「殺しのライセンス」を持たない限り非常に活動しにくい世の中となっています.これほど恐ろしい社会が歴史上存在したことがあるのでしょうか.

  一方,生命の大切さは強く主張されています.私自身,人間にとって生命が最も重要なものだとは思っていません.生命より大切なものが存在する,つまり,生命を犠牲にしても守らなければならないものが存在すると思っています.しかし,そのような状況が発生するのは非常に希なはずです.一生,そのような状況に遭遇しないのが普通だと思います.したがって,事実上,生命は最も大切なものであるはずです.しかしながら,現実はどうでしょうか.交通事故に関する現状を見る限り,日本の社会が「便利さや快適さのためには多少の犠牲は厭わない」という評価基準に基づいて動いていることは明らかです.生命は二の次です.このような状況の中で,「生命が最も大切である」と力説しても誰が信じるのでしょうか.確かに,この評価基準が言葉として表現されているわけではありません.しかし,子供たちはこの評価基準に基づいて動いている社会で育っています.当然,その評価基準を肌で感じているはずです.単に言葉の上で生命の大切さを叫んだとしてもどれほどの効果があるのでしょうか.

  また,環境面における問題も重要です.地球における生態系が崩れ,自然環境の保護が叫ばれつつある中で,もう少し適切な対応策があっても良いのではないでしょうか.気休め程度の排気ガス規制は行われていますが,タバコの煙などと比べて格段に有害なものであるにもかかわらず,とても十分だとは言えない状況です.禁煙,嫌煙などに対する多少狂気的な運動は,むしろ,車の方に向けるべきだと思います.早急に思い切った手を打たない限り(すでに,手遅れかもしれませんが),地球の将来は限りなく暗いものになってしまいます.地球は人間だけのものではありません.地球の支配者のごとく振る舞い,やりたい放題のことを行うようなことが永久に許されていくとは思えません.

  このような状況にあるにもかかわらず,行政は全く手を打っていないと言っても過言ではありません.自動車の所有に関しては全く野放しであり,交通量が多く渋滞するような状況になれば,道路を拡張したり新しい道路を造ると行った愚策だけで対応しています.対応策は必ずあるのです.たとえば,車の数が 0 になれば(非現実的ですが),車によって死んだりけがをする人も 0 になるはずですから.そこまで極端な方策を採用しなくても,何らかの方法があるはずです.自転車との関係上,車の話ばかりしてきましたが,根本的な問題はエネルギー消費にあると思います.いずれにしろ,かなりの痛みを伴ったものになると思います.生命や環境の大切さに重点を置くか,現在の生活をエンジョイすることに重点を置くか,早急な決断が必要だと思います.

科学技術と地球環境について

  最近,科学技術について非常に懐疑的です.ここ 100~200 年間に,科学技術は飛躍的な進歩を遂げました(と言われています).自分の目で見た 60 年間を見ても,確かに表面的には進歩したように見えます.科学技術の進歩により,様々なものが出現し,それらを大量に消費することによって(消費が伸びなければ維持できないような経済システムにも疑問を持たざるを得ません),人間の生活は豊かになってきました.このような文書を書けるのも,科学技術の進歩のおかげです.

  しかし,本当にこれで良いのでしょうか.人類だけに焦点を当て,現時点のことだけを考えれば良いのかもしれません.しかし,地球(宇宙)規模で考えたとき,とてもそのようには思えません.少なくとも今のままでは,人類は,地球にとって放蕩息子に過ぎません.いや,放蕩息子というより,地球に巣くう癌細胞といっても良いかもしれません.自分の収入(太陽光)を顧みず,親の財産(資源)を食いつぶすだけではなく,借金(環境問題)を重ねて,自分勝手に遊び歩いているのが今の人類ではないでしょうか.科学技術は,放蕩息子が遊び回る手助けをしたに過ぎないのではないでしょうか.

  放蕩息子が,結果として生きてゆけなくなる(人類の滅亡)だけなら,自分の責任である以上,やむを得ないかもしれません.しかし,地球とそこに存在する,また,存在しようとするものすべてに多大な迷惑をかける(かけている)ことを考えると,単にやむを得ないで済ますわけにはいきません.癌細胞は,結局,本体自身をも死に導きます.科学技術が進歩すれば,すべての問題は解決できると主張する人もいますが,今まで人類が行ってきた行動を見る限り,とても信じることはできません.このままでは,あと何年もつのでしょうか.せいぜい,100 年か 200 年程度ではないでしょうか.

  考え方の根本的な変換が必要です.地球にとって,人間だけが特別な存在ではないはずです.すべてのものが同じように存在する権利を持っているはずです.全ての存在物は,互いの強い関係の中に存在します.人間も,すべての存在物によって生かされている(もちろん,人間が他を生かしている面もあります)のだと思います.自然を恐れ,敬い,その中で共に生きていこうという姿勢が必要だと思います.そのためには経済システムなどがどのような形態であるべきなのか,科学技術はどのような役割を果たすべきなのか,早急に検討すべきだと思います.また,そのようなシステムに移行するためには,(あくまで,現在の評価基準の基づき)生活水準の低下,人口の減少などが必要かもしれません.少なくとも,かなりの移行時間を必要とするはずです.移行過程を明確にすることも非常に重要な課題です

  最近,地球温暖化防止のため,二酸化炭素等の排出を減少させるための努力が行われています.その中で,石油や石炭による発電を,太陽光,風力,地熱などに切り替えることが議論されています.その際も,人間中心的な検討しかなされていません.確かに,太陽光などを利用すれば二酸化炭素は減少するでしょうし,それによって人間が直接的な被害を受けることもありません.ただし,0 からエネルギーが生まれるわけではありません.例えば,太陽光発電においても,その影響を受けるものがあるはずです.極端な例として,地球上のほとんどを太陽光パネルで覆った場合を想像してみて下さい.太陽光パネルの面積が増加するに従って,似たような影響が少しずつ出てくるはずです.その影響は,人間に直接害を与えるものではなくても,巡り巡って必ず人間に戻ってきます.いかなる場合も,人間はもう少し謙虚になり,周りの全てのものに生かされていることを自覚して行動すべきです.

  少なくとも,昔の日本人は,人間だけを特別な存在とは考えず,自然と共に生き,自然に生かされている気持ちを強く持っていたはずです.自然を制御するといった驕った気持ちは強くなかったはずです.「自然保護」,「環境保護」,「環境デザイン」などという人間以外を下に見た思い上がった言葉はとても使えなかったと思います.なぜ,このような状況になってしまったのでしょうか.

  最も大きな原因は,明治時代以降に導入された西洋文明だと思います.日本人の考え方が仏教の影響を強く受けているように,西洋文明は,キリスト教の影響を強く受けています.『旧約聖書』の『創世記』第1章に,人間の創造に関する以下のような記述があります.

『神は言われた.「我々にかたどり,我々に似せて,人を造ろう.そして海の魚,空の鳥,家畜,地の獣,地を這うものすべてを支配させよう.」神は御自身にかたどって人を創造された.神にかたどって創造された.男と女に創造された.』

  人間は,神に続く存在として,人間以外のものは自由に支配できることになります.ここに,根本的な誤りがあります.繰り返しますが,人間は決して特別な存在ではないと思います.他のすべてのものと存在する権利は同じです.聖書には,上記以外にも,以下に示すように,人間の優位性を記述した多くの文書が見受けられます.

『何を食べようか,何を飲もうかと,自分の命のことで思いわずらい,何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな.命は食物にまさり,体は着物にまさるではないか.空の鳥を見るがよい.まくことも刈ることもせず,倉に取り入れることもしない.それだのに,あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる.あなたがたは彼らよりも,はるかにすぐれたものではないか.…野の花がどうして育っているか,考えてみるがよい.働きもせず,紡ぎもしない.しかし,あなたがたに言うが,栄華を極めたときのソロモンでさえ,この花ひとつほどにも着飾ってはいなかった.今日は生えていて,明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ,神はこのように装って下さるのなら,あなたがたに,それ以上よくして下さらないはずがあろうか.…だから明日のことを思いわずらうな.明日のことは明日自身がおもいわずらうであろう.一日の苦労は,その日一日だけで十分である.』(マタイ 6:25-34)

『イエスは彼らに言われた.「あなたがたのうち,だれかが一匹の羊を持っていて,もしその羊が安息日に穴に落ちたら,それを引き上げてやらないでしょうか.人間は羊より,はるかに値うちのあるものでしょう.それなら,安息日に良いことをすることは,正しいのです.』(マタイ 12:11-12)

  以上のようなキリスト教に強く影響された西洋文明は,自然を支配するための科学技術の進歩には貢献しましたが,失ったものはあまりにも大きすぎます.既に遅すぎるかもしれませんが,早急に現在の考え方を見直すべき時期だと思います.

  人間は,人間単独で存在するものではありませんし,また,存在もできません.人間の周りの他のすべてのものによって生かされています.仏教的な考えで表現するならば,「おかげさま」の世界です.この「おかげさま」の精神が行き渡っていたならば,地球も現在のような状態にはならなかったはずです.また,科学技術も別な形で進歩したかもしれません.しかし,現在の仏教では,「おかげさま」の対象を人間,とくに,「ご先祖様」だけにあてています.確かに,「ご先祖様」無くして今の自分は存在しません.従って,「ご先祖様」を敬うことは大切です.しかし,繰り返し述べるように,各個人は,他の人間だけでなく,他のすべての存在物によって生かされているのです.他のすべてを敬い,感謝する気持ちが重要です.現在のように,「ご先祖様」だけを対象としていては,葬式仏教の謗りを免れることはできません.仏教が,仏教本来の考えに戻り,積極的に活動してくれることを期待します.

  人間は,人間自身のことをまず第一に考えるのが普通だと思います.しかし,人間も,地球(宇宙)全体の生態系の一部です.従って,人間以外のことを考える部分も少しは存在するはずです.特に,小さな子供であるほど,その意識は強いのではないでしょうか.現在のような状況を招いた多くの責任は科学技術者,理系の人間が負っています.子供たちは,意識のどこかでそのことに気づいているのではないでしょうか.「理系離れ」という言葉がよく使用されていますが,その根本的な原因はここにあるのではないでしょうか.そのような場合,小学校などで如何に理数系の科目に対する教育を強化したとしても全く意味がありません.「自転車と環境について」の中で述べたように,「便利さや快適さのためには多少の犠牲は厭わない」という評価基準の基で動いている社会において,生命の大切さに対する教育を行っても大きな効果は期待できません.「理系離れ」を食い止めるためには,理系の人間が尊敬されるような働きをしない限り意味がありません.口先だけの教育ではなく,理系を目指したいような社会を作ることが,「理系離れ」を食い止める唯一の方法です.

少子化について

  2005年より日本の人口は減少に転じ,少子化の問題が叫ばれています.しかし,これほど不思議な問題はありません.人口はただ増加すればよいのでしょうか.地球は有限です.人口がひたすら増加していけば,いつか必ず破綻が来ます.温暖化の問題等,既に破綻が始まっているのかもしれません.現在の状況を見ると,地球にとって人類は癌細胞のようなものです.癌細胞がひたすら増殖すれば,その本体が死滅し,結局癌細胞自身も死滅してしまいます.人類は,癌細胞のように,それを全く理解すること無しに増殖を続けているようにみえます.

  人類が癌細胞ではなく,地球の一部として人類以外のものと調和を保ちながら生活していくには,適切な人口が存在するはずです.今行うべきことは,まず,日本(本来は,世界全体)にとってどの程度の人口が適切であるかを議論し決めることです(その値は,科学技術の進歩等によって異なってくるとは思います).また,その人口を維持しながら,人間が生き生きと希望に満ちて生活できる社会体制を模索すべきです.少なくとも,消費を拡大しない限り維持できないような社会体制ではないはずです.かつて人類が経験したことがないような社会体制を築き上げていく必要があります.そのような社会体制が決まったとしても,そこへ移行する道は決して平坦ではありません.どのような過程を経てそのような社会体制に軟着陸させるかを決めることも重要です.

  以上述べたことが決まった時点で,始めて,現在の少子化傾向に対する評価が生まれてくるはずです.以上述べた点に対する議論が全くない状態で,少子化を問題として取り上げ,議論し,対策を講じようとする態度が不思議でなりません.

防衛省とは何か?

  先日,2013 年 に TBS で放送された「空飛ぶ広報室」というドラマを見ました.しかし,第 1 話を見ただけで,第 2 話以降を見る気にはなれませんでした.第 1 話の前半部分に,稲葉リカ記者の「戦闘機って人殺しのための機械ですよね.そんなものに乗りたいんなんて,そんな願望がある人を取り上げるなんて,ちょっと・・・」という発言に対して,空井大祐二尉が興奮して「人を殺したいと思ったことなんて一度もありません.パイロットが人を殺すために戦闘機へ乗っているんだというんですか.俺たちがそんなことのために乗っていると言うんですか.・・・」と反論する場面がありました.確かに,災害派遣などは自衛隊の重要な任務です.しかし,自衛隊の最も重要な任務は,国を守るため他国と戦うことです.その場合,戦闘機の任務は他国のものを破壊することであり,結果として,人を殺すことにも繋がります.少なくとも,空井二尉のような考え方の人が自衛隊に,それも幹部として,勤務すべきでは無いと思います.このドラマは,防衛省,航空自衛隊の協力の基に作成されていますが,防衛省は,なぜこのような発言を許すのでしょうか.理解に苦しみます.防衛省の考え方が,空井二尉と同じような考え方であるとすれば,F35 のような高性能の戦闘機は必要ないと思います.お金の無駄遣いです.抑止力のために高性能の武器が必要であると主張する人もいるかと思いますが,空井二尉のような人が乗っている戦闘機は全く抑止力になりません.実際の場面において,武器を使用するのは人間です.人間の心構えが非常に重要だと思います.

  自衛隊における武器の開発においても,同じような考え方を感じます.武器であるからには,できる限り実戦に近い形でその性能の有効さを確認するような試験を行うべきです.しかし,そのような試験には危険も伴います.そのため,表面的な試験だけでその性能を確認し,装備化しているのが現状です.高性能なおもちゃを開発しているに過ぎません.そのために莫大な予算を使用することに意味があるのでしょうか.

  このように,今の自衛隊には,軍としての機能,覚悟が欠如しています.いざとなれば,国のため戦うという覚悟が全く見られません.自衛隊の存在の意義,あり方,などには多くの考え方があると思います.保険に入るべきか否かなどと同様,どの考え方が正しいかを明確に述べることはできません.しかし,それぞれの考え方に基づき,有効にお金を使用すべきです.戦いによって国を守ることを主務であると考えるならば(私自身はこの考え方に近い),高性能の武器も必要になると思いますが,重要なのは,各隊員が戦いに対する覚悟を持つことです.災害派遣などの任務を主務として考え,戦闘能力は単なるデモンストレーションであると考えるならば(現在の自衛隊が,そのように見えます),F35 のような高性能の武器は必要ありませんので,(人件費+α)的な,もっと少ない予算で自衛隊の維持は可能だと思います.さらに,現在の憲法に基づき,武力を放棄し,災害派遣などの任務だけを遂行するといった考え方もあると思います.少なくとも,防衛省は,憲法に縛られず,国としての考え方を明らかにし,その考え方に沿った自衛隊を維持すべきです.現状のように,何か問題が起こると,適当な法解釈でごまかし,形だけの軍体制を維持するといったことは絶対にやめて欲しいと思います.単なるお金の無駄遣いです.

ディジタル庁について

  ディジタル庁が生まれたとき,最初に思ったのは,「また,税金を無駄遣いする箇所が増えたのか」ということでした.新型コロナワクチン接種証明書アプリを使用してみて,その期待は裏切られませんでした.このようなアプリを作成する際に,まず最初に行うべきことは,このアプリが役に立つような環境を整えることです.しかし,それがほとんどありません.また,アプリ自体も非常に問題です.国内用と海外用を作成するために,マイナンバーカードとパスポートが必要です.マイナンバーカードだけで全ての情報を得ることができるはずです.さらに,新たに接種を行っても,情報の更新が行われません.アプリとして問題だらけです.

  また,最近,新型コロナウイルス対策関連の給付金を誤って1世帯に4630万円を振り込んだ問題が話題になっています.振り込まれたお金を猫ばばしようとした本人が非難されるのは当然ですが,問題は,振り込んだ側,役所に対する非難がほとんど存在しない点です.これは,振り込んでしまった人をもっと非難しろという意味ではありません.個人のちょっとした誤りが大きな問題を起こしてしまうようなシステム,及び,そのようなシステムを使用している役所を徹底的に非難しろという意味です.人間は必ずと言っていいほど誤りを起こします.誤りが起こった原因を詳細に調査し,可能であれば,ITを使用して,そのような誤りができるだけ起こらないようなシステムを作り上げていくこともディジタル庁の大きな仕事ではないでしょうか.

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